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野球界の偉人⑦(大沢啓二、山内一弘、吉田義男)

 

80年を超えるプロ野球の歴史には、数々の偉大な選手たちが存在します。
これからも語り継がれるべき、それぞれの時代を代表するスターの紹介第7弾です。
 

 

 

 

大沢啓二(南海ホークス - 東京オリオンズ)

 

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・外野手として頭脳的な守備で鳴らし、「打者の打球傾向ごとに守備位置を変える」というプレーを日本に広めた。1959年、杉浦忠の4連投4連勝で巨人を破った日本シリーズではその好守で影のMVPと評された。
・監督時代は通算7回の退場記録を持つ(マーティ・レオ・ブラウンに抜かれるまでの最多記録)。
・べらんめえ口調とその風貌から「親分」と呼ばれた。
・日本ハムにおいて背番号86を背負ったのは後にも先にもただ一人である。
・日本ハムの監督就任時に、張本勲をトレードで巨人に放出している。



山内一弘(毎日・大毎オリオンズ - 阪神タイガース - 広島東洋カープ)

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・通称は「打撃の職人」「シュート打ちの名人」「教え魔」など様々なものがある。
・日米野球のために初来日したヤンキースのケーシー・ステンゲル監督は印象に残った選手として「打者なら山内だ。メジャーでも通用すると思う」と話すなど高く評価した。
・1960年は、田宮謙次郎、榎本喜八、葛城隆雄とともに「ミサイル打線」と呼ばれる打線の四番打者としてチームを優勝に導き、MVP・本塁打王・打点王を獲得。
・1963年オフの「世紀のトレード」にて阪神タイガースへ移籍(トレード相手は小山正明)。
・1965年には史上初の通算300本塁打、1967年には川上哲治に次いで史上二人目の2000本安打を達成した。
・1968年には根本陸夫の誘いを受け、広島東洋カープへと移籍。広島で付けた背番号8はのちに山本浩二に受け継がれた。
外野手の通算最多捕殺記録保持者
・とにかく打撃指導が大好きで、練習中だろうと試合中だろうと敵味方問わず熱弁を振るっていた。
通算16度オールスターへ出場し、そのうち3度MVPを獲得した「オールスター男」である。



吉田義男(阪神タイガース)

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・阪神タイガースの永久欠番23
・阪神タイガースの監督としてはただ一人3度監督を務め、監督として阪神唯一の日本一を果たした人物である。
・現役時代は華麗な守備から牛若丸と呼ばれ、9度のゴールドグラブ賞に輝いた。
・1954年には、日本プロ野球史上最年少の20歳で盗塁王を獲得。
・1964年は、生涯唯一のシーズン三割越えとなる打率.318を記録し、当時の日本記録である179打席連続無三振を打ち立て優勝に貢献。
・打撃では三割越えは一度しかないが、三振の少ない粘り強い打撃が持ち味であった。
・400勝投手の金田正一は、身長が低くストライクゾーンの狭い吉田を苦手としており、吉田は通算66本塁打の内サヨナラ弾を含む8本塁打を金田から放っている。
・1965年に記録した12打点は2リーグ制以降の規定打席到達者での最少記録である。
・1990~1995年にはフランスの代表監督を務めた。

 

 

 

 

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