稲尾和久(西鉄ライオンズ)
・入団当初は無名の選手であり、当時監督であった三原からは「バッティングピッチャーとして入団させた」と公言されている。しかし、ルーキーイヤーの1956年開幕戦6回表でプロ初登板すると4イニングを無失点に抑えるデビューを果たす。結果的に1年目は21勝6敗、防御率1.06と圧倒的な成績で新人王・最優秀防御率を獲得する。
・1957年には35勝を挙げ、最年少でのMVPを獲得。翌1958年も33勝でMVP、1959年にも30勝を挙げ「3年連続30勝」を記録した。
・1958年の日本シリーズでは対戦相手の巨人に対して第一戦で先発するも敗戦。第2、3戦も巨人が勝利し後がなくなった第4戦で再び先発登板し初勝利。つづく第5戦にはリリーフとして連投し勝利。そして第6、7戦では連続先発し、どちらの試合も完投勝利を果たし逆転日本一に大きく貢献した。この時に出た新聞の見出しである「神様、仏様、稲尾様」が稲尾の代名詞となっている。
・1961年にはスタルヒンのシーズン最多勝記録に並ぶ42勝を記録し、当時のシーズン最多登板記録となる78試合登板を果たした。
江藤慎一(中日 - ロッテ - 大洋 - 太平洋 - ロッテ)
・プロ1年目から全130試合に出場し、打率.281、15本塁打、84打点の成績を残すものの、この年に新人記録となる31本塁打を放った桑田武に新人王を譲っている。
・6年目の1964年には戦後初の三冠王なるかと注目されていた王貞治に対して最終戦までもつれ込むデッドヒートの中、勝負を制して初の首位打者を獲得した。翌1965年にも同じく王の三冠を阻止して連続首位打者に輝いた。
・1970年途中にはロッテへトレード移籍し、優勝に貢献。1971年には打率.337で三度目の首位打者となり、史上初となるセ・パ両リーグ首位打者を達成した。
ジーン・バッキー(阪神タイガース - 近鉄バファローズ)
・日本プロ野球において初めて外国人として沢村賞を獲得した選手である。
・1962年に阪神のテストを受け入団。1963年は8勝を挙げる活躍を見せたものの、制球力に難があり、1964年開幕前には解雇される予定であった。しかし、世紀のトレードによってエース・小山正明を放出した結果「バッキーまでクビにしたらローテが組めない」と一転して残留することになった。
・1964年は下半身の重点強化とスライダーの習得などにより、353回1/3を投げ、29勝9敗、防御率1.89と驚異的な成績で最多勝、最優秀防御率、沢村賞を獲得した。
・1965年6月28日の巨人戦で2リーグ制以降では外国人投手初となるノーヒットノーランを達成した。
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