中西太(西鉄ライオンズ)
・「怪童」の異名を持った強打者。
・全盛期は短かったものの、現在も戦後最強打者の一人として名を推す人も多く、コーチとしても様々な球団で多くの打者を育てた名選手にして名コーチである。
・当時監督であった三原脩に口説き落とされ、1952年に西鉄ライオンズに入団。
・一年目から「5番・三塁」として111試合に出場し、打率.281、12本塁打、65打点で新人王を獲得。
・二年目には打率.314、36本塁打、86打点で本塁打王・打点王を獲得。合わせて36盗塁も記録し、史上3人目のトリプルスリーを達成。
・1962年には、29歳の史上最年少で監督に就任。
・「一部門がリーグ2位の二冠王」を通算4回記録している。これは王貞治の5回に次ぎ、長嶋茂雄の3回を上回る歴代2位の記録である。
金田正一(国鉄スワローズ - 読売ジャイアンツ)
・通算最多勝利数、通算最多奪三振数、通算最多投球回数、連続無失点記録を保持している。
・巨人に移籍後はV9の内、V1からV5に貢献。この際に付けていた背番号「34」は永久欠番となっている。
・名球会の創設者であり、2009年まで理事長を務めていた。(現在は名球会からも退会)
・17歳2カ月で最年少初ホームラン記録も保持している。
・2年目の1951年に敬遠サヨナラ暴投を記録。
・1957年8月21日に完全試合を達成。
・1958年6月5日に24歳で史上8人目の通算200勝を達成。この年は6月12日に「開幕から51試合目で20勝を達成」という驚異的なスピードで勝ち星を稼ぎ、さらにこの間に64回1/3連続無失点記録を樹立した。
小川健太郎(東映フライヤーズ - 中日ドラゴンズ)
・アンダースロー初の沢村賞受賞者。
・「背面投げ」を初めて行った投手である。これは1969年6月15日に当時絶好調だった王貞治に対して投球したものであった。
・1970年5月6日、オートレースで暴力団員と共謀して八百長を仕組んでいた容疑で逮捕される。6月3日に永久失格処分を受け、二度とマウンドに戻ることはなかった。