80年を超えるプロ野球の歴史には、数々の偉大な選手たちが存在します。
これからも語り継がれるべき、それぞれの時代を代表するスターの紹介第24弾です。
目次
大矢明彦(ヤクルトアトムズ)
・ドラフト7位での入団ながら1年目からレギュラーを獲得し、その後10以上に渡ってヤクルトの正捕手としてチームを支えた名捕手である。
・打撃成績は平凡ながら、球界随一と評された鉄砲肩を武器にシーズン盗塁阻止率5割越えを4度達成している。この記録は、大矢の他には田淵幸一、古田敦也(※5回)のみが達成しているものである。
・通算盗塁阻止率.433は古田敦也(.462)に次いで歴代2位の記録である。
門田博光(南海ホークス - オリックス・ブレーブス - 福岡ダイエーホークス)
・通算本塁打567本、通算打点1678打点は、共に王貞治・野村克也に次ぐ歴代3位の記録であり、40歳を超えても長く活躍したことから「不惑の大砲」と呼ばれたスラッガーである。
・高校時代は奈良の名門・天理高校で外野のレギュラーとして活躍していたが、意外なことに練習試合ですらホームランを打ったことのない選手であった。高校卒業後はノンプロの強豪・クラレ岡山で中心打者として才能を開花させ、南海ホークスへドラフト2位で入団した。
・入団1年目から野村克也監督に才能を見出され、79試合の出場で打率.250、8本塁打、31打点を記録した。
・2年目には打率.300、31本塁打、120打点の好記録で初タイトルとなる打点王を獲得した。
・プロ10年目を目前に控えたキャンプ中に柔軟運動でアキレス腱を断裂し、全治6カ月の重傷を負ってしまう。これを機に「歩いてこれるから」との理由で徹底的にホームランを狙うためのフォーム改造に着手し、この年の9月に戦列復帰を果たす。
・11年目の1980年は、前年のフォーム改造が功を奏し、DHでの出場で自身最多の41本塁打を記録。この活躍が評価され、カムバック賞を受賞した。ちなみにこの年から「44歳で亡くなった母親の供養のために44本ホームランを放つ」という理由で背番号を44に変更。
・12年目は前述の宣言通り44本塁打放ち、自身初の本塁打王に輝く。
・1983年からは「60本塁打」を目指して背番号を60に変更。シーズン中は死球により約一カ月戦列を離れたものの、40本塁打を記録し自身二度目の本塁打王を獲得。
・1988年、40歳となった門田は「今年こそ60本塁打」と順調に本塁打を重ねたものの、この年限りでの南海球団身売り騒動により、精神面にも影響を及ぼしたのか終盤は数を伸ばすことができなかった。それでも自身最多タイとなる44本塁打に加え、自身最多の125打点を記録し二冠王とMVPを獲得。この時に付いた「不惑の大砲」という異名は流行語にもなった。
・当時のプロ野球記録となる月間本塁打16本、シーズン満塁本塁打4本(パ・リーグタイ記録)、2試合連続サヨナラ本塁打(パ・リーグ史上初)、1試合5四球(パ・リーグタイ記録)など数々の打撃記録を持っている。一方で、アキレス腱断裂前のプロ4年目には、共に外野手としてのパ・リーグタイ記録となる1試合10守備機会・10刺殺を記録している。
衣笠祥雄(広島東洋カープ)
・当時の世界記録となる2215試合連続出場を果たした「鉄人」。
・現役時代に付けていた背番号「3」は広島の永久欠番である。
・小学生の頃は野球ではなく柔道を習っており中学でも柔道部に入ろうとしたが、衣笠が入った学校には柔道部がなく、やむを得ずラグビー部を見学していた所、その隣で練習をしていた野球部に興味を持ち入部を決める。高校では3年時に捕手として春夏甲子園出場を果たしている。
・1965年に強肩強打の捕手として広島に入団。その後は肩を痛めてしまったこともあり、2年目には一塁手へとコンバートする。
・3年目まではなかなか出場機会に恵まれず伸び悩んでいたことから、自身のアピールポイントを「長打力」に置き、常にフルスイングを続けることでレギュラーを奪取。4年目には21本塁打を記録し、一躍チームの中心選手として台頭した。
・当時の世界記録となった連続試合出場記録は、6年目の1970年10月19日巨人戦からスタートした。
・1971年は27本塁打、1972年は29本塁打に加えリーグ最多安打を記録。1974年には自身最多となる32本塁打を放った。1975年には新監督のジョー・ルーツにより三塁手へとコンバートされ(ルーツ監督は4月半ばで退任)、5番打者として広島の初優勝に大きく貢献した。
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