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野球界の偉人㉒(池永正明、高橋一三、田淵幸一)

 

80年を超えるプロ野球の歴史には、数々の偉大な選手たちが存在します。

これからも語り継がれるべき、それぞれの時代を代表するスターの紹介第22弾です。

 

 

 

 

池永正明(西鉄ライオンズ)

 

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・投手として5年間で99勝を挙げるほどの実力者でありながら、「黒い霧事件」によって文字通りその存在をかき消されてしまった投手である。

・同期入団にはジャンボ尾崎こと尾崎将司がいる。

・1965年に入団した池永は高卒一年目ながら20勝を挙げ、新人王を獲得する。

・1966年は15勝、1967年は23勝で最多勝を獲得し、衰えが見え始めた稲尾和久に代わって西鉄のエースに君臨した。その後も1968年は23勝、1969年は18勝とチームの大黒柱として活躍し、ファンからも「稲尾の再来」として大きな期待を受ける存在となっていった。しかし、1969年オフに上述の「黒い霧事件」にて永久追放処分を受け、その後二度とプロ野球のマウンドへ登ることはなかった。

・当時のプロ野球選手としては抜群の身体能力を誇っており、打者としても5年弱の現役期間で13本塁打を放ち、守備でも機敏な動きを見せていた。

 

 

 

高橋一三(読売ジャイアンツ - 日本ハムファイターズ)

 

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V9巨人の左腕エースとして活躍し、1981年の日本ハム優勝にも大きく貢献した投手である。

・荒れ球だったことからカウントが1ストライク3ボールになることが多く、名前の「一三」にかけて「ワンスリー」とも呼ばれた。

・1968年の9月17日には江夏豊がシーズン奪三振記録を作った試合の対戦相手として登板しており、354個目の三振を王貞治から奪うと決めていた江夏豊は「高橋さんから三振を奪わないようにするのが大変だった」と語っている。

・1969年にはフォークボールをマスターし、シーズンでは15連勝を含む22勝を挙げ、最多勝&沢村賞を獲得した。

・1973年にも23勝、リーグ最多の238奪三振を記録し、二度目の沢村賞を獲得。しかし、その後は勤続疲労の影響からか左肩痛により成績が低迷してしまう。

・長嶋茂雄が現役引退した翌年は、球団初の再開に沈んだ状況からフロントが日本ハム・張本勲をトレードにより獲得することを決断し、これにより高橋は富田勝とともに日本ハムへ移籍する。

・移籍初年度の1976年は10勝を記録し復活を遂げたものの、その後は腰痛の影響から再び低迷してしまう。この怪我をきっかけにこれまでの速球中心の投球スタイルからスローボールを積極的に用いるスタイルにモデルチェンジし、1981年には14勝を挙げる活躍で見事に再復活を果たし、チームの優勝に貢献する。

・胴上げ投手になることが多く、V9時代にシーズン4度日本シリーズで4度胴上げ投手になっている。

 

 

 

田淵幸一(阪神タイガース - 西武ライオンズ)

 

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・1968年ドラフト1位で阪神に入団。1年目から強肩強打の捕手としてレギュラーに定着

・1970年には外木場義郎から左こめかみに死球を受け昏倒し左耳が難聴になってしまう。これ以降、野球界には耳付きのヘルメットが使われるようになった。

・1973年4月26日、5月9日、10日の対巨人戦で同一カード7打数連続本塁打を達成。

・1975年には王貞治の14年連続本塁打王を阻止して自身初の本塁打王を獲得。

・1978年オフにトレードで西武へ移籍。1980年には一塁手へコンバートし、西武史上初の40本塁打を記録。

通算400本塁打を記録しているが2000本安打を達成することが出来なかった選手である。