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野球界の偉人㉕(佐藤道郎、鈴木啓示、平松政次)

 

80年を超えるプロ野球の歴史には、数々の偉大な選手たちが存在します。 これからも語り継がれるべき、それぞれの時代を代表するスターの紹介第25弾です。

 

 

 

佐藤道郎(南海ホークス - 横浜大洋ホエールズ)

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パ・リーグの初代セーブ王

・1年目に、監督1年目の野村克也からリリーフとしての適性を見出される。シーズン開幕戦でプロ初登板を果たすと、2日後にはプロ初勝利を記録した。この年は最終的に、リーグ最多の55試合(内先発は3試合)で規定投球回にも到達し、18勝6敗防御率2.05新人王最優秀防御率を獲得する。

・3年目には、2リーグ制以降の日本記録となる11試合連続登板を記録。

・4年目の1972年には、5月30日のダブルヘッダー第2試合で榊親一に逆転サヨナラ3ランを打たれると、次の試合では福本豊からサヨナラソロを打たれ、そのまた次の試合では長池徳士にサヨナラ弾を浴び、史上初の3試合連続サヨナラ本塁打被弾という記録を作ってしまった。

・セーブが公式記録として導入された1974年には自己最多の68試合に登板し、7勝8敗13セーブ防御率1.91で最優秀防御率とパ・リーグの初代セーブ王をダブル受賞し、1976年にも16セーブでセーブ王となっている。

・1977年には江夏豊に抑えの座を譲り、先発として12勝10敗の好成績を残した。

 

鈴木啓示(近鉄バファローズ)

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・日本プロ野球最後の300勝投手

・近鉄にて付けていた背番号パ・リーグ初の永久欠番である。

・元々は右利きだったが、幼少期に右腕を骨折したことをきっかけに父親から左利きに矯正される。

・1年目の1966年は高卒でありながら10勝を挙げ、オールスターにも選出され出場を果たしている。

・2年目は、21勝に加えてリーグ最多の222奪三振、19完投、10無四球試合を記録。

・3年目には、23勝と前年に続きリーグ最多の305奪三振を記録。8月8日の東映戦ではノーヒットノーランを達成している。

・1971年には自身二度目のノーヒットノーランを達成。

・1977年にはドラフト制後の入団選手として初の200勝を達成。

・1984年に史上4人目の300勝を達成。

通算勝利数は317勝。完投数は勝利数を上回る340完投を記録している。その他にも、560被本塁打(世界記録)、78無四球完投試合(日本記録)、通算先発勝利数288勝(日本記録)など数々の記録を持っている。

 

平松政次(大洋ホエールズ)

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大洋の生え抜き投手唯一の200勝投手である。

・高校3年春の選抜で39イニング無失点の記録を作り優勝を果たしている。

・1966年に大洋からドラフト2位指名を受け入団。憧れていた長嶋茂雄にちなんで投手としては珍しい背番号「3」を選んでいる。

・3年目には「カミソリシュート」を武器に初の二桁勝利となる14勝を挙げる。8月30日には僅か73球で完投という記録を作っている。

・1970年には332回2/3を投げ、25勝19敗、防御率1.95で最多勝と沢村賞を獲得した。

・1981年は1969年から続いていた連続二桁勝利が途絶え、1982年にはあまりの肩痛から一度「引退」を宣言するも、引退試合のつもりで登板した試合で5回1失点に抑え勝利を挙げる。この試合では、球速100km/h程度しか出ていなかったもののトレーナーから「肩の筋肉はまだ生きている。200勝を目指せ。」と声を掛けられ現役続行を決断。1983年に通算200勝を達成した。

・通算200勝以上を記録した選手では、野口二郎とともに現役中に優勝を一度も経験できなかった投手である。

最も王貞治にホームランを打たれた投手である(25被本塁打)。

投手ながら通算25本塁打を放っている。これは金田正一、米田哲也、別所毅彦に次ぐ歴代4位の記録である。

 

 

 

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