80年を超えるプロ野球の歴史には、数々の偉大な選手たちが存在します。 これからも語り継がれるべき、それぞれの時代を代表するスターの紹介第26弾です。
福本豊(阪急ブレーブス)
・通算1065盗塁(当時の世界記録)を記録した「世界の盗塁王」。
・阪急の不動のトップバッターとして、上述の通算盗塁以外にもシーズン106盗塁、13年連続盗塁王など盗塁の記録に関しては圧倒的な日本記録を保持している。
・その盗塁になんとか対抗するため、当時南海の正捕手であった野村克也がクイックモーションという投球術を作り出した。
・実は突出して足が速いというわけではなく、スタートの巧さと徹底した相手バッテリーの研究で癖を見抜き、その隙を突いて盗塁を量産した。
・盗塁に関する記録がクローズアップされることが多いが、通算2543安打(歴代5位)、通算449二塁打(歴代2位)、通算115三塁打(歴代1位)、通算猛打賞178回(歴代5位)、通算初回先頭打者本塁打43本(歴代1位)などの記録を持つ大打者である。
藤田平(阪神タイガース)
・高校卒業後プロ入りし、当時の阪神には正遊撃手に「牛若丸」と呼ばれた吉田義男がいたものの、1年目から68試合に出場を果たす。
・2年目には吉田をセカンドに追いやり、ショートのポジションを奪うと、リーグ最多の154安打を放つなど主力として活躍する。
・4年目の1969年には、リーグ最多の526打数を記録しながら併殺打0の記録を残す。
・1971年には自己最多の28本塁打を放ち、1973年・1975年に遊撃手部門でダイヤモンドグラブ賞に選ばれている。
・1978年には、それまで小川亨が記録していた180打席連続無三振を大きく更新する208打席連続無三振を達成するなど(のちにイチローが216打席連続無三振で更新)、年間僅か18三振と驚異的なバットコントロールを見せた。
・1979年には故障により一時引退を考えたものの賢明なリハビリによって翌1980年に復帰を果たす。
・1981年はコーチ兼任となり開幕を迎えると、ハイペースで安打を量産し、巨人の篠塚利夫と熾烈な首位打者争いを繰り広げ、最終的に僅か1厘差の打率.358で藤田が初の首位打者を獲得した。
・1983年には阪神の生え抜き選手として初となる2000本安打を達成。1984年に現役生活の幕を閉じた。
・現役生活19年で1度も優勝を経験することができなかった。
堀内恒夫(読売ジャイアンツ)
・日本初のドラフト会議で読売ジャイアンツから1位指名を受け入団。
・1年目はデビューから13連勝を含む16勝や、44回連続無失点(新人記録)を記録するなど最優秀防御率、最高勝率、沢村賞、新人王のタイトルを獲得する。ちなみにこの年記録した勝率.889はセ・リーグ記録である。
・2年目には広島戦でノーヒットノーランを達成。この試合では投手史上初の3打席連続本塁打を記録している。
・7年目の1972年には、江夏豊との通算99勝対決を制し、通算100勝を達成。野手陣はONを含めて3割打者不在、投手陣も堀内以外中々勝つことができない中、孤軍奮闘しリーグ最多の26完投、312回を投げて26勝などエースとしてチームを牽引し、優勝・日本一に大きく貢献。シーズンMVP、日本シリーズMVP、最多勝、沢村賞を獲得した。ちなみにこの年の堀内がセ・リーグ最後の25勝投手である。
・1973年の日本シリーズでは投手史上初の1試合2本塁打を記録。その他にもシリーズ通算記録として27登板(シリーズ記録)、140回1/3(シリーズ記録)、11勝(シリーズタイ記録)など数々の記録を残している。
・10年目の1975年に通算150勝を達成。
・1980年に通算200勝を達成。
・投手としては優れた打力を持っており、自身の引退試合でもホームランを放つなど通算21本塁打を記録している。
・守備も非常に優れており、ダイヤモンドグラブ賞が創設された1972年から7年連続で受賞。クイックも非常に上手く、福本豊からは「あんなクイックは初めて見た。パ・リーグであんなことができるピッチャーはいない」と称された。
・オールスターには9度出場し、20イニング以上投げた投手の中で通算防御率1.44は歴代1位の記録である。
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